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商売が繁盛するには、どないしたらええか、そのアイデアをお売りします。関心おありの方は次までお葉書下さい。 〒381-0103 長野市若穂川田2599 伊藤鉄郎 宛

 

商売が繁盛する秘訣は幾つかあるんやけどその一つを皆様にお教えします。小生元より儲けるためにしてる訳ではなく皆様の明るい未来を築くためのお手伝いであります。以下はその一つです。

 

「マイナスをプラスに変える松下幸之助、運を開く言葉」from PHP文庫

 

 松下電器及び電工の会長松下幸之助氏の唯一の宝物、それは質屋の通い帳だったという。ソケットの製造販売を思い立ったのだが思うようにいかない。四ヶ月かかって作っては見たものの思うように売れない。資金も乏しくなり明日の生活さえどうなるか分からないというほどの困窮に落ちってしまった。ムメノ夫人が質屋通いをして急場をしのいだのはその頃だった。着物や帯、さらに指輪まで質入れされていたことが記されている。
 その後ソケットの製造技術を生かして扇風機の部品の一つである蓋盤を作ってほしいとの注文が入り、それは相当に儲かった。そこで松下電器器具製作所を立ち上げた。
 因みに彼は尋常小学校4年で学校を辞め丁稚奉公に行ったとのこと。家も貧しかったのやね。彼のチャレンジ精神は並々ならぬものがあった。
 彼は新入社員採用の面接で質問する。君は自分は運がいいと思うかそれとも悪いと思うかと。運がいいと答えたものだけ採用しその者に仕事を任せたという。良い結果が出るいうわけだ。彼自身何度か死にそこなったが、その度に命拾いをしてきた強運の持ち主であったと書いている。
 人の言語活動は、聞く、話す、読む、書くの四つで、それらに人間が費やすパーセンテージは、聞くが50%、話す30%、読むが15%、書くが5%だと言われている。日常生活のかなりの部分を占める聞くということがうまくやれるかどうかで人生も変わってくると言えるのでないか。話し上手も大事であるがそれは自分の持ってるものを相手に与えるだけで、相手から吸収するものがない。聞き上手は処世の上で大事なもんであると彼は述べている。
 商売は価格、品質は重要であるがそれだけではいかん。ビジネスマンにとって大事なのは愛されること、今流にいえばフアンになって貰うことだ。それが氏の説くところである。

 鳴かずんば殺してしまえ時鳥と言うた信長の人生はどないであったか。秀吉は鳴かずんば鳴かせて見せよう時鳥、これには無理がある。中途で天下を放らざるをえなかった。鳴かずんば鳴くまで待とう時鳥と言うた家康が一番長く天下を取った。それの上を行くのが松下幸之助である。彼は鳴かずんばそれもまたよし時鳥と詠った。後々の世まで会社をはん栄させ愛され続けられるであろう。
 彼がフォードの言葉に感銘を受けた話を挙げてこの項を終わりたい。それは「優秀な技術者ほどできないという理論を知っている」という言葉である。氏は「知識は大切であるが、それにとらわれてはならない。物事に行きずまった時、ダメだと決め込まないで、今一度、自分が持っている常識や既存の知識にとらわれず素直に物事を見直せば、思いもよらぬ解決法を見いだせることが多い」と述べている。自分は尋常小学校四年しか出てない。だから年齢の長若にかかわらず周りの人全てを師と仰いだと言うその謙虚さ。これが成功の秘訣である。

 

アンドリュー・カーネギーの生涯(from google)

1835年11月25日、スコットランド・ダンファームリンに手織り職人の長男として生まれる。
イギリスの織物産業は蒸気機関を使用した工場に移りつつあり、仕事がなくなった一家は、1848年にアメリカのペンシルベニア州へ移住。アンドリューは12歳のときに織物工場で作業員として働き初める。15歳になるとオハイオ電信会社ピッツバーグ電信局で電報配達の仕事に就き、1年足らずで電信技士に昇格する。
 1853年、18歳のときにペンシルバニア鉄道のトマス・アレクサンダー・スコットがアンドリューを秘書兼電信士として引き抜く。スコットがペンシルバニア鉄道の副社長に昇進すると、代わりにアンドリューがピッツバーグの責任者になった。またアンドリューは鉄道関連の会社(鉄鋼業、橋梁建設業など)に投資を行い、徐々に資金を蓄えていった。
 南北戦争(1861〜1865)の際には鉄鋼の需要が高まり、戦前から製鉄業に投資していたアンドリューに大きな利益をもたらしている。南北戦争が終結するとアンドリュー・カーネギーはペンシルバニア鉄道を退職。製鉄業に専念するようになる。アンドリューの母は彼を結婚させなかったが、母が亡くなった翌年、51歳のアンドリューは30歳の女性と結婚。1897年に娘が産まれる。
 

 1880年代後半にアンドリュー・カーネギーの会社は銑鉄、コークス、鋼製のレールの世界最大の供給業者となった。
 1892年、56歳のアンドリューは所有する会社をまとめて、カーネギー鉄鋼会社を創業。世界最大で最も高収益な会社となった。
 1901年、65歳になったアンドリューは引退を考え、銀行家ジョン・モルガン(J. P. Morgan)にカーネギー鉄鋼会社を売却。他の会社と合併してUSスチールが誕生した。
 アンドリュー・カーネギーは残りの人生を慈善活動に捧げ、図書館建設、世界平和、教育、科学研究などに多額の寄付をした。特に公共図書館の設置に力を入れた。
 1919年8月11日、アンドリュー・カーネギーは気管支肺炎のためマサチューセッツ州レノックスで死去。83年の生涯を閉じた。遺産の3000万ドルも基金や慈善団体や年金などに遺贈された(以上はgoogleより)
 

次は別な書物からの引用である。


鉄鋼王カーネギーは、どんな職務を与えられてもそれに全力を尽くした。それが郵便配達でも、電信技士でも全力でぶつかっていった。目の前にあることを愛したのだ。彼の偉いところは、それに安住していたわけではないことだ。自分の興味のありそうな仕事へ転職して最後には、天職の鉄鋼という分野で、鉄鋼王と言われるほどにまでなった。
 彼が、郵便配達は自分のやることではない言うていい加減にやっていたら、次のチャンスを引き寄せることはなかったであろう。『すきなこと』探しの旅を続ける連中には、このことが分かってない人間が多い。今、目の前にある状況から逃避してばかりでは、折角のチャンスも目の前を通り過ぎて行ってしまうのだ。

 この点で最も似ているのが実業家として成功を収めたパナソニック創業者松下幸之助である。晩年に次代の国家指導者を育成するべく私費70億円を投じて神奈川県茅ヶ崎市に公益財団法人松下村塾を設立した。
 在学中または就職中でない22歳以上38歳以下の青年で所定の選考に合格した者のみが入塾を認められる。入塾後は塾内の寮で集団生活を送りながら、4年間に渡り研修や実践活動を行う。在籍中は毎月20万円の「研修資金」が給付され、各自の活動計画に基づいた「活動資金」が別途支給されとのこと。そして次世代を担う多くの若手国会議員を輩出している。


 


 

 

 

 

 

 

 

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