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心を動かされた物語

日本の未来を担う若き諸君に

是非お勧めしたい動画を集めて居ます

 

■日本海海戦 史上類のない完全勝利

■日本に衝撃が走る!日本が植民地にならなかった理由

■明治150年 真の日本の姿 第二話

■明治150年 真の日本の姿 第五話

■戦後70周年に向けて 第五部 海の武士道 敵兵を救助せよ!

■戦後70周年 奇跡の将軍  樋口季一郎

■樋口季一郎 占守島の戦い

■2万人のユダヤ難民を救った樋口季一郎と は(2020/8/19新聞記事より)

■世界一 日本を愛するパラオ、あの時代日本人は何をしたのか?

 

日本〜廃墟からの復興

米軍の空襲で一面の焼野原となった東京の隅田川新大橋付近(昭和20年8月)

 

現在の隅田川周辺

 

 

 

■卒業演奏会 モーツアルトピアノ協奏曲第26番と鈴木鎮一さんの言葉

1921年(大正10年)、アインシュタインは日本からドイツに留学していた鈴木鎮一(音楽教育家、1898-1998)の面倒を見ることになった。鈴木は徳川義親の渡欧に同行した人物で、ドイツでベルリン高等音楽学校教授カール・クルングラーに師事していた。当初、鈴木は医学部教授のミヒャエルス教授のもとで生活していたが、アメリカの大学に招聘されたため、ミヒャエルス教授はアインシュタインに鈴木のことを託した。鈴木はアインシュタインがバッハのシャコンヌ(無伴奏ヴァイオリンの演奏のためのソナタとバルティータBWV1004-5)を好んでおり、ヴァイオリンの演奏は自分より上手いと思ったという。アインシュタインは鈴木を通じて日本人の人となりを知るきっかけになったといわれています。

 そこで才能教育で学んだ皆さま、鈴木鎮一先生の生の声を聴いて頂きたい。生前の先生の姿が彷彿としてくる筈。それは愚息が、研究科の卒業演奏をしたモーツアルトのこの曲の後に述べられた言葉です。

 

■日本と台湾の絆

 

人類への限りない愛に満ちた日本外交官〜杉原千畝

■ユダヤ 人の記憶に生きる日本人 杉原千畝

■6000人のユダヤ人の命を救った杉原千畝氏

 

「ベートーヴェンの交響曲第九が日本で初めて演奏されたのはここの収容所の中でした。余談ですがケーキのバームクーヘンもここのパン職人の捕虜によって作られた」

ベートーヴェン歓喜の歌が初めて歌われた

続編・ベートーヴェン歓喜の歌が初めて歌われた
 

 

ウガンダの父と言われた凄い日本人 、山崎豊子の「沈まぬ太陽(二)アフリカ篇・下」のP268〜274にそのことが書かれています(名前、企業名等は、実名ではない)

自分を犠牲にして外国人を守った日本人

 

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