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吉田 茂 (1878〜1967)

 

奇人伝第一号として講和条約を結ぶ大役を果たした吉田茂を取り上げましょう。例のバカヤロウ解散ですが、決して大声で野党議員に怒鳴ったわけではなく小声でささやくようにバカヤロウと言うたんやけど目の前に置かれたマイクがそれを拾うてしまった。それで大問題になり、解散せざるを得なくなったようです。戦後処理のためGHQが撤収した第一生命館に陣取っていたGHQ最高司令官総司令部 General Headquarters, the Supreme Commanderはダグラス・マッカーサー であった。吉田氏はそのGHQの頭文字を例のユーモア精神でGO HOME QUICKLYと言いました。食料不足で国民が困窮してるから食料をアメリカから送って貰いたいとマッカーサーに頼み届いたのが頼んだ三分の一だった。其れでも何とかなった。マッカーサーが吉田にお前のとこの統計は随分いい加減やなあ言うたら、そのお陰でバカな戦争をしたんや。 正確だったら戦争負けなかったと言うたらマッカーサーも苦笑い。そのマッカーサーがお前とても血色いいが毎日うまい物喰うてるんか聞いたら、吉田曰く「わては毎日人を喰うてるでなあ」

 

 

終戦当時、白洲次郎は日本の敗戦を見越して鶴川村(現町田市)で百姓になり田畑を耕していたところ、吉田総理に呼び出され終戦連絡中央事務局参与にさせられた。さて、講和条約の条文を外務省の役人が苦労して英訳したのを吉田に見せられた時、堂々と日本語でやるべきだ。巻物に認めたのを読むべきだと主張。吉田もそらそうや言うて講和条約の式典当日巻物を広げてゆっくり読んだ。それを見た式典会場の人たち、何やらトイレットペーパーのビッグサイズのようなモノを読んだのでたまげたとのこと。
では白洲次郎の名言集を

 

1.いま日本でいけないのはすぐ人の脚をひっぱることだね。これは大変な奴だと思うと脚をひっぱっちゃう。だから日本で何かのトップにゆく奴は、毒にも薬にもならない奴が大部分だよ。
2.人に好かれようと思って仕事をするな。むしろ半分の人には嫌われるように積極的に努力しないと良い仕事はできない。
3.(マッカーサーに対し)仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!
4.プリンシプルは何と訳してよいか知らない。「原則」とでもいうのか。日本も、ますます国際社会の一員となり、我々もますます外国人との接触が多くなる。西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることは絶対に必要である。
5.長く大事に持っているものは人に貰ったものより自分自身の苦心の結晶に限る。
6.われわれは戦争に負けたが、奴隷になったのではない。
7.今の日本の若い人に、一番足りないのは勇気だ。「そういう事を言ったら損する」って事ばかり考えている。
8.(GHQに対し)アナタの英語も練習すればうまくなる。
9.こんなバカな戦争を始めた奴の顔が見てみたい。
10.この憲法は占領軍によって強制されたものであると明示すべきであった。
11.僕は政治家じゃないし、人に何言われても一向に平気なんだ。僕はそういう所、わりに旧式なのよ。自分の良心はきれいだと思ってるから、人が何言おうと平気なんだ。
12.すべての物事で大事なのはその事自体より、それに掛かり合っている原則だということを忘れてはならない。
13.対等なのだから相手国に合わせる必要はない。(英語でスピーチしようとした吉田首相に対し)
14.永続性のない様なことはせぬがよい。しても無駄だから。
14.プリンシプルを持って生きれば、人生に迷うことはない。
15.このごろのマスコミの論調をそのまま世論だとお思いめさるな。国民はそんなに軽率でもないし一方的でもありません。
16.熱意だよ。日本でも明治維新の時の政治家とか実業家は、熱意があったからあれだけの仕事が出来たんだね。
17.どうしたらよくなるか、それを工夫してゆくよりしょうがないじゃないか。よくなるとかならんというよりも、よくするほかに途(みち)がないことを認識すべきだ。
18.日本人も日本も欠点だらけらしいが、人間も国家も完全ではあり得ない。米国もまたその例外ではなかろう。
19.弱い奴が強い奴に抑え付けられるのは世の常で致し方なしと諦めもするが、言うことだけは正しいことを堂々と言って欲しい。

 

吉田茂という人物は稀にみる幸運な人物だったということです。対照的だったのが戦時中の総理だったというだけで東条英機以下九人の軍関係者に混じり唯一人文官、それも戦争に反対し続けた広田公毅だったということです。彼は一切の弁明をせず死刑台の露と消えたのです。詳しくは城山三郎著「落日燃ゆ」を読まれたし。 
さて、広田公毅が総理だった時吉田は1936年(昭和11年)は、二・二六事件から2か月後に駐イギリス大使となった。大命を拝辞した盟友の近衛文麿から広田への使者を任されて広田内閣で組閣参謀となり、外務大臣・内閣書記官長を予定したが、寺内寿一ら陸軍の反対で叶わなかった。駐英大使としては日英親善を目指すが、極東情勢の悪化の前に無力だった。また、防共協定および日独伊三国同盟にも強硬に反対した。1939年(昭和14年)待命大使となり外交の一線からは退いた。 太平洋戦争(大東亜戦争)開戦前には、ジョセフ・グルー米大使や東郷茂徳外相らと頻繁に面会して開戦阻止を目指すが実現せず、開戦後は牧野伸顕、元首相近衛ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事(ヨハンセングループ)し、ミッドウェー海戦敗北を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが、その後も日本軍はアメリカ本土空襲やレンネル島沖海戦、オーストラリア空襲など勝利を重ね、イギリス軍やアメリカ軍は敗走を重ねたたため成功しなかった。

しかし1945年に入り日本の敗色が濃くなると、近衛文麿に殖田俊吉を引き合わせ、後の近衛上奏文につながる終戦策を検討。しかし書生として吉田邸に潜入したスパイ(=東輝次)によって1945年(昭和20年)2月の近衛上奏に協力したことが露見し憲兵隊に拘束される。ただし、同時に拘束された他の者は雑居房だったのに対し、吉田は独房で差し入れ自由という待遇であった(親交のあった阿南惟幾陸相の配慮によるものではないかとされている)。40日あまり後に不起訴・釈放となったが、この戦時中の投獄が逆に戦後は幸いし「反軍部」の勲章としてGHQの信用を得ることになったといわれる。

第二次世界大戦後内閣総理大臣就任

1945年、内閣総理大臣幣原喜重郎(前列中央)ら幣原内閣の閣僚らと
終戦後の1945年(昭和20年)9月、東久邇宮内閣の外務大臣に就任[3]。11月、幣原内閣の外務大臣に就任。12月、貴族院議員に勅選される。翌1946年(昭和21年)5月、日本自由党総裁鳩山一郎の公職追放に伴う後任総裁への就任を受諾。内閣総理大臣に就任した(第1次吉田内閣)。大日本帝国憲法下の天皇組閣大命による最後の首相であり、選挙を経ていない非衆議院議員(貴族院議員なので国会議員ではあった)の首相も吉田が最後である。また、父が公選議員であった世襲政治家が首相になったのも吉田が初めてである。同年12月20日には、吉田の退陣を要求する在日朝鮮人によって首相官邸を襲撃される。大蔵大臣に石橋湛山を任じて傾斜生産や復興金融金庫によって戦後経済復興を推し進めた。

1947年(昭和22年)4月、日本国憲法の公布に伴う第23回総選挙では、憲法第67条第1項において国会議員であることが首相の要件とされ、また貴族院が廃止されたため、実父・竹内綱および実兄竹内明太郎の選挙区であった高知県全県区から立候補しトップ当選したが、与党の日本自由党は日本社会党に第一党を奪われた。社会党の西尾末広は第一党として与党に参加するが、社会党からは首相を出さず吉田続投を企図していた。しかし吉田は、首相は第一党から出すべきという憲政の常道を強調し、また社会党左派の「容共」を嫌い翌月総辞職した。こうして初の社会党政権である片山内閣が成立したが長続きせず、続く芦田内閣も1948年(昭和23年)、昭電疑獄により瓦解した。この間、政策に不満を持ち民主党を離党した幣原喜重郎や田中角榮らの民主クラブと日本自由党が合併し民主自由党が結成され、吉田が総裁に就任した。

サンフランシスコ平和条約〜サンフランシスコ平和条約署名式にて


朝鮮戦争勃発により内外で高まった講和促進機運により、1951年(昭和26年)9月8日、サンフランシスコ平和条約を締結。また同日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(日米安保)を結んだ。国内では全面講和論の支持者も少なくなく、吉田は政治生命を賭けて平和条約の調印に臨んだが、帰国後の内閣支持率は戦後最高の58%(朝日新聞)に上った。しかし、ここが吉田の頂点であった。

側近の白洲次郎などが独立達成を花道とした退陣を勧めるなど退陣論もあったが、吉田はなおも政権に意欲を見せ、続投した。しかし、党内に公職追放を解かれた鳩山一郎を総裁に復帰させる動きがあり、吉田は衆議院を解散(抜き打ち解散)したが、自由党の議席は過半数をわずかに上回るものだった。吉田は第4次吉田内閣を組織した。1953年(昭和28年)2月、吉田の国会で質問者(西村栄一)に対し「バカヤロー」と発言したことが問題となり、三木武吉ら反吉田グループは吉田に対する懲罰事犯やそれに続く内閣不信任案を可決させ、吉田は衆議院解散(バカヤロー解散)で対抗した。選挙の結果、自由党は少数与党に転落、改進党との閣外協力で第5次吉田内閣を発足させて延命を繋いだ。吉田内閣は鳩山グループとの抗争や度重なる汚職事件を経て、支持は下落していく。

1954年(昭和29年)1月から強制捜査が始まった造船疑獄では、犬養健(法務大臣)を通して、検事総長に佐藤栄作(幹事長)の収賄罪の逮捕を延期させた(後に佐藤は政治資金規正法違反で在宅起訴されるが国連加盟恩赦で免訴となる)。これが戦後唯一の指揮権発動である。当然ながら、新聞等に多大なる批判を浴びせられた。また、同年6月3日の警察庁及び道府県警察を設置する警察法全面改正をめぐる混乱では、議長堤康次郎に議院警察権を発動させて国会に警官隊を初めて投入した。同年7月1日には保安庁と保安隊を防衛庁と自衛隊に改組させており、野党が自衛隊は軍隊であるとして違憲と追及した際は吉田は「軍隊という定義にもよりますが、これにいわゆる戦力がないことは明らかであります」と答弁した。自身の体験から来る極端な軍隊アレルギーが放たせたともされている。同年12月、野党による不信任案の可決が確実となると、なおも解散で対抗しようとしたが、緒方竹虎ら側近に諌められて断念し、12月7日に内閣総辞職、翌日に自由党総裁を辞任した。日本で5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂ただ1人である。内閣総理大臣在任期間は2616日。

造船疑獄では吉田自身が国会から証人喚問を複数回要求されたが、公務多忙や病気を理由に出頭しなかった。国会から議院証言法違反(不出頭罪)で告発されるも、吉田が首相を退いた後である1955年5月19日に検察は不起訴処分とした。

内閣総辞職後
1955年(昭和30年)の自由民主党結成には当初参加せず、佐藤栄作らとともに無所属となるが、池田勇人の仲介で1957年(昭和32年)に入党した。1962年(昭和37年)、皇學館大學総長就任、翌1963年(昭和38年)10月14日、次期総選挙への不出馬を表明し政界を引退した。しかし、引退後も大磯の自邸には政治家が出入りし、「大長老」「吉田元老」などと呼ばれ、政界の実力者として隠然たる影響力を持っていた。

1964年(昭和39年)生前叙勲制度の復活により大勲位菊花大綬章を受章。同年には、マッカーサー元帥の葬儀に参列するため渡米した。1965年(昭和40年)、米寿にあたり、天皇より鳩杖を賜る。

その後も回顧録をはじめとした著述活動などを続け、死の前年である1966年(昭和41年)には、『ブリタニカ百科事典』1967年版の巻頭掲載用として、"Japan's Decisive Century"(邦題:「日本を決定した百年」)と題した論文の執筆を行った。1967年(昭和42年)6月には「日本を決定した百年」を国内で出版したが、それから間もない8月末に心筋梗塞を発症した。このときは、あわてて駆けつけた甥の武見太郎(医師会会長)の顔を見て「ご臨終に間に合いましたね」と冗談を言う余裕を見せたといわれる。

死去前日の10月19日に「富士山が見たい」と病床で呟き、三女の和子に椅子に座らせてもらい、一日中飽かず快晴の富士山を眺めていたが、これが記録に残る吉田の最期の言葉である。翌20日正午頃、大磯の自邸にて死去した。突然の死だったため、その場には医師と看護婦3人しか居合わせず、身内は1人もいなかった。臨終の言葉もなかったが、「機嫌のよい時の目もとをそのまま閉じたような顔」で穏やかに逝ったという。享年90(満89歳没)。

葬儀は東京カテドラルで行われた。10月31日には戦後初の国葬が日本武道館で行われ、官庁や学校は半休、テレビ各局は特別追悼番組を放送して吉田を偲んだ。

戒名は叡光院殿徹誉明徳素匯大居士。遺骨は青山霊園の一角において娘婿の麻生太賀吉らと並んで葬られたが、2011年に神奈川県横浜市の久保山墓地に改葬された。その後、大磯旧吉田茂邸内の七賢堂に人物神として祀られている。


 

 

 


 

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