伊藤博文〜初代内閣総理大臣

1.生い立ち
長州藩周防国(すおうのくに)に農民の子として生まれた。幼い頃は貧しく親が出稼ぎに行っており、一人っ子の博文は母の実家に預けられた。その後萩に移り住み一家で暮らし始めると、寺小屋に読み書きを習いに行った。父が伊藤家の養子となり、博文も足軽の身分に。
1856年、15歳のときに藩命で浦賀の警備につくが、その翌年には長州に戻り、吉田松陰の松下村塾に入った。松下村塾では高杉晋作らと学んだ。18歳のとき、桂小五郎の従者となって江戸に行き、尊王攘夷運動に参加した。

2.イギリス留学とその後
1863年、22歳のとき、長州藩による留学生として井上馨らと上海経由で4か月かけてイギリスへ。ロンドンでは、一生懸命英語を学び数か月のうちに日常会話もでき手紙も書けるようになった。上海やイギリスを見て、外国と戦争しても日本は勝てないと思っていたところに、長州藩が外国船を砲撃したことを知り、慌てて帰国し長州藩に外国との戦争をやめさせようとしたが長州藩は聞かず結局イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四国連合艦隊は下関を攻撃し長州藩は敗北した。(四国連合艦隊下関砲撃事件(下関事件)。この講和の際は通訳を務めた。

3.憲法草案と制定
明治新政府でも英語力を評価され、外国事務掛に就いた。
1871年、30歳のとき岩倉使節団の副使として欧米諸国を視察した。ヨーロッパで各国の憲法を調べ、ドイツ(プロイセン)の憲法を手本にした憲法草案を作ろうと思い至る。
1885年(44歳のとき)に初代内閣総理大臣となった後、横須賀の夏島の別荘で三か月かけて案を練り、明治天皇も臨席した枢密院で半年かけて審議しながら仕上げた

 

伊藤博文の成功と失敗から学ぶ教訓

明治初期を代表する大政治家でありながら、素朴で庶民的な人柄が見え隠れする伊藤博文。その人生から学ぶべき教訓とはいったいどのようなものであろうか。

1:人を見る目と愛嬌さ
伊藤博文は百姓から内閣総理大臣という、まるで豊臣秀吉のように立身出世を成し遂げたが、その成功は多くの実力者の寵愛によるところがある。たとえば来原良蔵と出会うことで学問を学び、高杉晋作に従うことで維新の立役者になり、大久保利通・岩倉具視に従うことでその後の政権を任されている。その時々に従うべき人を見極め、その人に愛されることで学び、成長していった。

2:協力しあうが馴れ合わず
伊藤博文と山県有朋を対比して、伊藤博文は私党を作らないと言われている。その言葉通り、その時々で必要な人物は重用するが、その後も贔屓するようなことはなかった。あくまで公のために動くことが目的で、自分が権力を握り続けることを良しとはしていなかったのかもしれない。そこは秀吉とは異なっている。
 どれだけ優秀な人物であっても、独りで事を成すのは難しい。上下の別なく、人に愛され、協力してもらえることはリーダーに必要な素質の一つではないだろうか。また、そうして握った力を万人のために役立てる公の精神も、伊藤から見習うべきことであろう。(以上googleより)

付記・・少年時代寺子屋で学ぶ一方、家では津田梅子女史より英語を学んだ。つまり津田梅子先生は彼の家庭教師だったと言える。

 

 

 

 

 

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